「あの恩師がいなければ今の自分はなかった」「あのクラスメートとの出会いがいまの自分の職業につながっている」「隣の部屋に引っ越してきた青年がいまの主人だ」といったような経験があるという方も少なくないのではないでしょうか。
時は20世紀のはじめ、イギリス・ロンドンで2人の日本人が出会いました。
ひとりは文部省の国費留学生としてロンドンにやってきた夏目金之助。のちの作家・夏目漱石です。その金之助の下宿にドイツのライプツィヒの留学を終えた男性がやってきました。のちに、「うま味」の正体がグルタミン酸ナトリウムであることを発見する池田菊苗博士です。
※本記事では人名を敬称略にて記載しています。ご了承ください。
漱石がロンドンの街でみた現実、そして挫折
夏目漱石は、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)で教鞭をとっていた1900年(明治33年)、文部省より「英語教育法研究」のため英国留学を命じられ、その年の9月、横浜港より出発しパリを経て、10月28日に英国に到着しました。
ロンドン(倫敦)への留学は、できたばかりの国家である日本という国が、西洋諸国に追いつくために才能あふれる学者にヨーロッパの文化を持ち帰ってもらうという目的もありました。いまの留学と当時の留学では、その意味も目的も大きく異なっていたと思われます。
留学当初はロンドン大学の講義も聴講していた漱石でしたが、数か月もすると通うのをやめてしまいました。英文の有名な作品を読み漁り、家庭教師のもとに通ったりしていましたが、もともとの使命である「英語教育法研究」は進みません。
然し留学中に段々文学がいやになった。西洋の詩などのあるものをよむと、全く感じない。それを無理に嬉しがるのは、何だかありもしない翅(つばさ)を生はやして飛んでる人のような、金がないのにあるような顔して歩いて居る人のような気がしてならなかった。所へ池田菊苗君が独乙(ドイツ)から来て、自分の下宿へ留った。
― 夏目漱石「処女作追懐談」(1908年)より
漱石にとって菊苗との出会いは大きな利益であった
慣れない異国の地、進まない研究。漱石の精神状態は悪化し、どんどん追い詰められていきます。そんな漱石に届いた一通の手紙。漱石の第五高等学校での同僚であり、ドイツへ国費留学生として留学していた大幸勇吉からの手紙でした。
ドイツ・ライプツィヒ大学で研究を重ねてきた勇吉は、ロンドンの王立研究所への留学に向かう池田菊苗に、昔なじみの漱石を紹介したのです。漱石は、菊苗を自らの下宿に招くことを決め、勇吉に返事をしたのでした。
1901年(明治34年)5月5日、漱石の下宿に、池田菊苗がやってきました。下宿には漱石と菊苗の2人しかいないこともあって、2人は世界観、哲学、文学、女性観に至るまで、深く真摯に語り合ったということです。
漱石と菊苗は、時折二人でロンドンの街に出て博物館や美術館巡りをし、教養を深めることもあったそうです。下宿にこもりがちだった漱石も、菊苗をロンドンでの見聞に案内するという大義名分のもと、この時期だけは出歩くことが増えたのだとか。
池田君は理学者だけれども、話して見ると偉い哲学者であったには驚いた。大分議論をやって大分やられた事を今に記憶している。
― 夏目漱石「処女作追懐談」(1908年)より
漱石が「哲学の面では菊苗にかなわなかった」と記すように、菊苗は多方面に博学でした。漱石は、毎夜のように菊苗と話すうち、菊苗の学識の高さと深さに心服し、化学者以外の側面にも惹きつけられていきます。
一方の菊苗も、打ち解けるうちに漱石の影の一面を垣間見ながら、深い洞察力をもって文学の魅力を語る漱石に、幾度となく作家になることを薦めたそうです。漱石は大成する逸材。菊苗は、当時からそれを見抜いていたのかも知れません。
このとき、漱石は34歳、菊苗は37歳。日本を遠く離れたイギリス・ロンドンでの邂逅は、専門分野は違っても互いに大きな刺激となったことがうかがい知れます。
倫敦(ロンドン)で池田君に逢ったのは、自分には大変な利益であった。御蔭で幽霊の様な文学をやめて、もっと組織だったどっしりした研究をやろうと思い始めた。
― 夏目漱石「処女作追懐談」(1908年)より
高めあう漱石と菊苗
漱石と菊苗がロンドンの同じ屋根の下で過ごした期間は約2か月。その後二人はロンドン市内に別々に居を構えることになり、同宿の生活は幕を閉じます。菊苗がロンドンを離れるまで頻繁にお互いの住まいを訪ねるなど、交遊は続きました。
菊苗は、王立研究所での短期留学を終えて日本に帰国。残された漱石は、文学を科学的に解明すべく、さらに深く文学研究の世界に没頭していきます。その熱意は凄まじく、帰国までに綴ったノートの厚さは六寸(20cm)にもおよんだといいます。
漱石は帰国後も研究を続け、多くの苦しみを乗り越えた末に、小説家として「吾輩は猫である」、「坊ちゃん」、「草枕」、「三四郎」、「こころ」、「それから」、「道草」、「明暗」など数多くの名作を書き上げることとなります。
一方の菊苗も、帝国大学教授として教鞭を執りながら、化学研究者として研究を進めました。甘味・塩味・酸味・苦味に分類できない、第5の味があることに気づいた彼は、1908年(明治41年)2月、こんぶだしから有機酸を結晶化させることに成功。それがアミノ酸の一種であるグルタミン酸であることを解明しました。「うま味」の発見です。
このグルタミン酸を主成分として商品化されたものが「味の素®」となりました。
漱石の菊苗に関する記述は、「文学論」「処女作追懐談」の中だけではなく、日記や友人に宛てた書簡にも書き残されています。門弟の寺田寅彦に宛てた手紙の中で漱石は、「菊苗との交流によって自らの進むべき道が明確になった」と語っています。
専門分野が全く異なる漱石と菊苗。ロンドンでの二人の出会いは、互いの未来に大きな影響を与えたといえるでしょう。
人と人との出会いは、ときに出会った当人たちだけでなく、周囲をも巻き込む転機や大発見につながることもあります。また、出会いから偶然生まれた言葉や想いが、後々まで誰かを突き動かす原動力になっているかも知れません。
出典:上山明博(2011)『「うま味」を発見した男』-PHP研究所
夏目漱石(1908)『処女作追懐談』-文章世界
夏目漱石(1907)『文学論』
廣田鋼蔵(1994)『化学者池田菊苗-漱石・旨味・ドイツ-』-東京化学同人
参考:稲垣瑞穂(2004)『夏目漱石ロンドン紀行』-清文堂出版
末延芳晴(2004)『夏目金之助ロンドンに狂せり』-青土社
2020年12月の情報をもとに掲載しています。
倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあつて狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり。
― 夏目漱石「文学論」(1907年)より