歴史・トリビア

夏目漱石と池田菊苗、ロンドンでの出会いが未来を変えた?

偶然の出会いが、その後の人生に大きな影響を与えること、みなさんもありませんか?

「あの恩師がいなければ今の自分はなかった」「あのクラスメートとの出会いがいまの自分の職業につながっている」「隣の部屋に引っ越してきた青年がいまの主人だ」といったような経験があるという方も少なくないのではないでしょうか。

時は20世紀のはじめ、イギリス・ロンドンで2人の日本人が出会いました。

ひとりは文部省の国費留学生としてロンドンにやってきた夏目金之助。のちの作家・夏目漱石です。その金之助の下宿にドイツのライプツィヒの留学を終えた男性がやってきました。のちに、うま味調味料「味の素®」の主成分、グルタミン酸ナトリウムを発見することになる池田菊苗博士です。

※本記事では人名を敬称略にて記載しています。ご了承ください。

漱石がロンドンの街でみた現実、そして挫折

夏目漱石は、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)で教鞭をとっていた1900年(明治33年)、文部省より「英語教育法研究」のため英国留学を命じられ、その年の9月、横浜港より出発しパリを経て、10月28日に英国に到着しました。

ロンドン(倫敦)への留学は、できたばかりの国家である日本という国が、西洋諸国に追いつくために才能あふれる学者にヨーロッパの文化を持ち帰ってもらうという目的もありました。いまの留学と当時の留学では、その意味も目的も大きく異なっていたと思われます。

倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあつて狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり。
― 夏目漱石「文学論」(1907年)より

留学当初はロンドン大学の講義も聴講していた漱石でしたが、数か月もすると通うのをやめてしまいました。英文の有名な作品を読み漁り、家庭教師のもとに通ったりしていましたが、もともとの使命である「英語教育法研究」は進みません。

然し留学中に段々文学がいやになった。西洋の詩などのあるものをよむと、全く感じない。それを無理に嬉しがるのは、何だかありもしない翅(つばさ)を生はやして飛んでる人のような、金がないのにあるような顔して歩いて居る人のような気がしてならなかった。所へ池田菊苗君が独乙(ドイツ)から来て、自分の下宿へ留った。
― 夏目漱石「処女作追懐談」(1908年)より

漱石にとって菊苗との出会いは大きな利益であった

慣れない異国の地、進まない研究。漱石の精神状態は悪化し、どんどん追い詰められていきます。そんな漱石に届いた一通の手紙。漱石の第五高等学校での同僚であり、ドイツへ国費留学生として留学していた大幸勇吉からの手紙でした。

ドイツ・ライプツィヒ大学で研究を重ねてきた勇吉は、ロンドンの王立研究所への留学に向かう池田菊苗に、昔なじみの漱石を紹介したのです。漱石は、菊苗を自らの下宿に招くことを決め、勇吉に返事をしたのでした。

1901年(明治34年)5月5日、漱石の下宿に、池田菊苗がやってきました。下宿には漱石と菊苗の2人しかいないこともあって、2人は世界観、哲学、文学、女性観に至るまで、深く真摯に語り合ったということです。

漱石と菊苗は、時折二人でロンドンの街に出て博物館や美術館巡りをし、教養を深めることもあったそうです。下宿にこもりがちだった漱石も、菊苗をロンドンでの見聞に案内するという大義名分のもと、この時期だけは出歩くことが増えたのだとか。

池田君は理学者だけれども、話して見ると偉い哲学者であったには驚いた。大分議論をやって大分やられた事を今に記憶している。
― 夏目漱石「処女作追懐談」(1908年)より

漱石が「哲学の面では菊苗にかなわなかった」と記すように、菊苗は多方面に博学でした。漱石は、毎夜のように菊苗と話すうち、菊苗の学識の高さと深さに心服し、化学者以外の側面にも惹きつけられていきます。

一方の菊苗も、打ち解けるうちに漱石の影の一面を垣間見ながら、深い洞察力をもって文学の魅力を語る漱石に、幾度となく作家になることを薦めたそうです。漱石は大成する逸材。菊苗は、当時からそれを見抜いていたのかも知れません。

このとき、漱石は34歳、菊苗は37歳。日本を遠く離れたイギリス・ロンドンでの邂逅は、専門分野は違っても互いに大きな刺激となったことがうかがい知れます。

倫敦(ロンドン)で池田君に逢ったのは、自分には大変な利益であった。御蔭で幽霊の様な文学をやめて、もっと組織だったどっしりした研究をやろうと思い始めた。
― 夏目漱石「処女作追懐談」(1908年)より

高めあう漱石と菊苗

漱石と菊苗がロンドンの同じ屋根の下で過ごした期間は約2か月。その後二人はロンドン市内に別々に居を構えることになり、同宿の生活は幕を閉じます。菊苗がロンドンを離れるまで頻繁にお互いの住まいを訪ねるなど、交遊は続きました。

菊苗は、王立研究所での短期留学を終えて日本に帰国。残された漱石は、文学を科学的に解明すべく、さらに深く文学研究の世界に没頭していきます。その熱意は凄まじく、帰国までに綴ったノートの厚さは六寸(20cm)にもおよんだといいます。

漱石は帰国後も研究を続け、多くの苦しみを乗り越えた末に、小説家として「吾輩は猫である」、「坊ちゃん」、「草枕」、「三四郎」、「こころ」、「それから」、「道草」、「明暗」など数多くの名作を書き上げることとなります。

一方の菊苗も、帝国大学教授として教鞭を執りながら、化学研究者として研究を進め、1908年(明治41年)2月、こんぶだしから有機酸を結晶化させることに成功し、アミノ酸の一種であるグルタミン酸を発見しました。「うま味」の発見です。このグルタミン酸を主成分として商品化されたものが「味の素®」となりました。

漱石の菊苗に関する記述は、「文学論」「処女作追懐談」の中だけではなく、日記や友人に宛てた書簡にも書き残されています。門弟の寺田寅彦に宛てた手紙の中で漱石は、「菊苗との交流によって自らの進むべき道が明確になった」と語っています。

専門分野が全く異なる漱石と菊苗。ロンドンでの二人の出会いは、互いの未来に大きな影響を与えたといえるでしょう。

人と人との出会いは、ときに出会った当人たちだけでなく、周囲をも巻き込む転機や大発見につながることもあります。また、出会いから偶然生まれた言葉や想いが、後々まで誰かを突き動かす原動力になっているかも知れません。

出典:上山明博(2011)『「うま味」を発見した男』-PHP研究所
夏目漱石(1908)『処女作追懐談』-文章世界
夏目漱石(1907)『文学論』
廣田鋼蔵(1994)『化学者池田菊苗-漱石・旨味・ドイツ-』-東京化学同人

参考:稲垣瑞穂(2004)『夏目漱石ロンドン紀行』-清文堂出版
末延芳晴(2004)『夏目金之助ロンドンに狂せり』-青土社

2020年12月の情報をもとに掲載しています。

歴史・トリビア

うま味発見から商品化への軌跡ー池田菊苗物語

UMAMI・・・今や海外でもローマ字表記で流通する「うま味」ですが、その発見や商品化、そして普及へと至る道は、池田菊苗博士の自宅にある実験室で始まりました。幕末に生まれ、激動の明治維新を化学の道で切り開き、些細なきっかけから「うま味」を発見するに至った池田菊苗博士の人生は、現代を生きる私たちの食生活にも多大な影響を与えています。



うま味の発見者、池田菊苗(いけだきくなえ)博士


気づき

幕末から明治維新へ。激動の時代で学んだ池田菊苗博士

池田菊苗博士は1864年(元治元年)に生まれました。時代は幕末。250年以上続いた江戸時代が終わりを迎えていた頃です。池田博士が幼い頃に徳川家は大政奉還、新政府が設立され、明治維新を迎えました。法律や身分制度、産業や経済、教育などあらゆる分野が刷新され、近代国家へと歩みを進めていく時代の中にあって、池田博士は大阪衛生試験所や東京帝国大学(現・東京大学)で化学を学びました。

大学卒業後、池田博士は教員の道に進みます。19世紀末、池田博士は高等師範学校の教授を経て東京帝国大学理科大学化学科の助教授となり、さらに文部省海外留学生としてドイツに留学して化学を学びました。当時のドイツは英国を抜いて世界一位の大国になろうとしていた時代。近代国家へと一気に歩みを進める日本の若者たちにとって憧れの国でした。医学の森鴎外や北里柴三郎、音楽の滝廉太郎といった錚々たる顔ぶれがこの頃のドイツで学んでいます。

そんな時代にドイツへと渡り、ドイツの人々の中で生活した池田博士の経験は、のちのうま味の研究に至る重要なターニングポイントとなります。当時のドイツでは化学もまた世界の先頭を走っていました。そんな中、池田博士が師事していたのは、後にノーベル化学賞を受賞することになるヴィルヘルム・オストヴァルト博士でした。彼のもとで池田博士がまず驚いたのは、研究室にある最先端の設備だったといいます。後に自宅にも研究室を作った池田博士にとって、これは大きな驚きでした。当初はドイツ語の理解もままならない中で、池田博士は日本を背負って学ぶという使命感に駆られて学習や研究に没頭しました。

世界最先端の化学を学び、触媒研究についてのオストヴァルト博士と共著論文を発表するなど精力的に活動したことは、池田博士にとって大きな財産となったことでしょう。

池田博士は20世紀へと移った1901年(明治34年)にはロンドンにも留学しました。その際には、小説家の夏目漱石や精神科医の呉秀三もロンドン留学中でした。

夏目漱石は池田博士について「池田君は理学者だけれども話して見ると偉い哲学者であったには驚いた。大分議論をやって大分やられた事を今に記憶している。倫敦で池田君に逢ったのは自分には大変な利益であった」(『処女作追懐談』より)と振り返っています。

きっかけは、妻が買ってきたこんぶ

「眼を悦ばす美麗なる色素や嗅覚を楽ましむる馥郁たる香料は化学工業によりて数多く製造されつゝあれども味覚に訴ふる製品はサッカリンの如き恠し気なる甘味料を除きては殆んど稀なり、
昆布の主要呈味成分の研究は或は此の欠点を補ふ一助たるべきなり」

帰国し、東京帝国大学の教授として研究に励み、教壇に立った池田博士。1907年(明治40年)のある日、妻が持ち帰ったこんぶを見て、味覚に訴えかける調味料の研究に可能性を見出しました。目に見える色素や鼻から楽しむことのできる香料は存在していましたが、味覚に訴える調味料は一部の甘味料以外には無かったのです。

その頃、明治政府は産業の発展を図るために「競進会」と呼ばれる催しを全国各地で開いていました。農産物や工業製品を集めて一般に公開する品評会です。池田博士の妻が競進会でこんぶを買い求めたとき、それが食卓の味を100年後も豊かにする「うま味」発見のきっかけになるとは、果たして想像したでしょうか。

後に世界にも影響を与える「うま味」の研究は、こうした些細なきっかけからから始まりました。池田博士は、四基本味である酸味(さんみ)、甘味(かんみ)、塩味(えんみ)、苦味(にがみ)のとは別の成分があるのではないかとにらんで、研究に取り掛かっていました。

思い

研究は一筋縄にはいかなかった

池田博士が1899年(明治32年)にドイツへ留学し、ヴィルヘルム・オストヴァルト博士に師事していた頃、彼はドイツ人の体格と栄養状態のよさに驚きました。そして「日本人の栄養状態を改善したい」と強く願うようになりました。
その思いは池田博士による手記『「味の素」発明の動機』の「佳良にして廉価なる調味料を造り出し滋養に富める粗食を美味ならしむること」という一文に表されています。

池田博士は明治の日本人たちの栄養状態を憂慮し、多くの食べものを美味しく食べることができる社会を望みました。日本を背負う気持ちで訪れたドイツで彼らの体格を見て、日本人の食生活の貧弱さを変えると心に決めていました。

個人的なお財布事情も

親の事業が失敗して家出をしていた経験もある池田博士は、「貧は諸道の妨なり」ということわざのような体験をし、若い頃からそのことわざの重みを痛切に実感していました。だからこそ貧乏から脱したいという思いも潜在的な動機としてあり、理論化学の研究からうま味研究のような応用研究に向かわせていったことは否めないと述べています。
社会のことだけでなく自らの懐事情も考えながら研究に励まなけらばならない状況は、今も昔も変わっていないのかもしれません。苦難の時代を乗り越え、池田博士はうま味の発見に向かっていくことになります。

発見・発明

日本人の栄養状態を改善するには

化学は無用の長物ではない。---ほとんど就職先もなく、実用性のない学問と思われていた日本の化学でしたが、ドイツ留学での経験などを経て、池田博士にとって自明のことだったのかもしれません。池田博士はこんぶを煮出しては結晶化を試みる研究に没頭しました。

池田博士の研究ノート(1918年~1929年頃)の写真

池田博士の研究ノート(1918年~1929 年頃)

1907年(明治40年)にはこんぶを通じて、味覚に訴えかける調味料の研究に可能性を見出していた池田博士でしたが、最初からうまくいったわけではありませんでした。

こんぶから浸出液を抽出し、粘質物を除き、無機塩類、マンニットを結晶させてみたものの、呈味物質は液中に残ってしまい、ついにはこれを分離させることができませんでした。当時の研究は通常時の研究に加えてあくまでも個人的に取り組んでいたため、他の研究に多忙だったこともあり、この専門外の実験は一時中止することになってしまいます。

しかし翌年、あるきっかけが池田博士の研究を再び動かすことになります。

それは、雑誌で発表された三宅秀博士の論文でした。三宅博士は日本初の医学博士で、「佳味は消化を促進する」という説を発表したのです。日本人の栄養状態を憂慮し、改善したいという思いを持っていた池田博士は三宅博士に後押しされるようにして、味がよくて廉価な調味料を作り出そうと思いを新たにし、研究を再開する決意をしました。

この頃、研究は私説の助手とともに自宅の研究室で行われていました。世界の食卓に「うま味」を届けることになる壮大な研究が、およそ100年前に池田博士によって自宅で行われていたのです。

ついにうま味成分を発見

1908年(明治41年)2月、研究を再開してから間もないうちに池田博士はこんぶだしから有機酸を結晶化させることに成功しました。そのとき抽出できたのは、12kgのこんぶのうち30gだったそうです。この有機酸は酸味を持っていましたが、酸味が消えると四基本味以外の味の要素を構成していることがわかりました。

これがグルタミン酸(池田博士は「具留多味酸」と表記しました)というアミノ酸の一種であり、「うま味」の発見です。池田博士、44歳の冬でした。「うま味」との命名は、池田博士自身によってなされました。

池田菊苗博士が昆布から抽出したグルタミン酸の写真(1908年)

池田菊苗博士が昆布から抽出したグルタミン酸(1908年)

グルタミン酸は元来、ドイツで発見されていましたが、これがうま味成分であることを突き止めたのは、池田博士による大発見でした。さらに池田博士は、グルタミン酸を原料としたうま味調味料の製造方法を発明しました。最も有利な製造の諸条件、そして使用上最も便利な製品を決定し、同年7月には『「グルタミン」酸鹽ヲ主要成分トセル調味料製造法』として特許を取得しています。発明を形にすることの重要性を、池田博士はオストヴァルト博士から学んでいました。

彼自身は「学術上より見れば余の発明は頗る簡単なる事柄なりし」と謙遜していますが、100年以上経った現代の私たちの食卓を豊かにしてくれた池田博士による功績の大きさは計り知れません。

特許をもって「うま味」を展開していくために相談した先は、味の素創業者・2代鈴木三郎助でした。

研究中から面談を行なっていた2人は、まず三郎助の個人事業である鈴木商店で調味料事業を開始。1909年(明治42年)に三郎助は、世界初であり、現代でも広く食されるうま味調味料「味の素」の販売をスタートさせました。後に株式会社鈴木商店となり、現代の味の素グループへとその名称を変えていきました。味の素グループの原点は「おいしく食べて健康づくり」という志にあるのです。

明治時代の味の素本舗事務所の写真

立証

およそ100年を経て、池田博士の研究が科学的に証明される

長く愛されてきた「味の素®」。池田博士の発見から21世紀まで1世紀近くが過ぎゆきました。

2000年(平成12年)、マイアミ大学の研究チームが、舌の味蕾と呼ばれる部位にグルタミン酸の受容体があることを発見したのです。これによって、人間が「うま味」を感知していることが、科学的に立証されました。

酸味(さんみ)、甘味(かんみ)、塩味(えんみ)、苦味(にがみ)の四基本味しか認知されていなかった世界の科学では「うま味」に相当する言葉がなかったため、現在でも「UMAMI」と表記されるなど、池田博士の研究の先進性がうかがえる結果となりました。一般的にこの用語がよく使用され始めたのは、この2000年頃と言われています。

それよりさかのぼる1982年(昭和57年)に「うま味研究会」が発足し、生理学、栄養学、食品化学 分子生理学などの各分野から専門家が集まり、「うま味」について議論されました。1985年(昭和60年)にハワイで行われた国際シンポジウムでは、「UMAMI」という用語が世界的に使われることで合意されました。マイアミ大学の研究チームによる受容体発見の背景には1990年(平成2年)にイタリアのシシリー島で行われた第2回シンポジウムでうま味物質の普遍性やうま味感覚の独立性および独自性が確認され、うま味は基本味のひとつであることについて一定の科学的合意が取れていたことが挙げられます。

また、2006年(平成18年)には、味の素KKライフサイエンス研究所が、胃にもグルタミン酸の受容体があることを発見しています。これはタンパク質の消化吸収に関与していることがわかっています。人間の体は舌でも胃でもうま味を受け入れ、おいしさと健康に寄与しています。このようにグルタミン酸は、おいしさに関わるだけでなく、栄養・生理学的にも重要であることが示されました。「おいしく食べて健康づくり」という志は、科学的にも実証されているのです。

今や私たちの食生活に欠かせない存在になっている「うま味」。その発見と商品化には、幕末から明治にかけて近代国家への歩みを進める日本において、日本人の健康のために化学者・池田菊苗博士の奮闘した姿がありました。発見から100年以上経った今でも私たちの食卓に生きる「うま味」は、これからもきっと私たちにとって大切な味であることでしょう。

2019年3月の情報をもとに掲載しています。

偉人の食卓

太宰治「食べすぎて、すみません。」~ 偉人の食卓シリーズvol.1

味の素社では、2011年から新聞広告として「偉人の食卓」というシリーズの広告を掲載していました。歴史上の人物にスポットを当て、その人物がどのような料理を好んでいたか、またその料理に関するエピソードを紹介し、資料などから「偉人の食卓」を再現するというものです。

今回は第1回として「太宰治(だざい おさむ)」のエピソードをご紹介します。

「人間失格」「斜陽」「津軽」「走れメロス」などの著作で知られる小説家、太宰治。作品の世界観や氏の写真の雰囲気から、食が細い印象がしますが、果たして実際はどうだったのでしょうか。

また、太宰と味の素?の意外な関係も明らかになりました。

"食べすぎて、すみません。"

それでは、この新聞広告「偉人の食卓 太宰治」を紹介しましょう。
タイトルは、太宰の短編小説「二十世紀旗手」のサブタイトル"生れて、すみません。"から、 "食べすぎて、すみません。"

https://www.ajinomoto.co.jp/kfb/cm/newspaper/pdf/ajinomoto_np062.pdf
クリックするとPDFファイルをご覧いただけます。
ご注意
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偉人の食卓 太宰 治

食べすぎて、すみません。

「子供の頃の自分にとって、最も苦痛な時刻は、
実に、自分の家の食事の時間でした。」

そんな『人間失格』の一節からは想像できないほど、
実際の太宰治は、よく食べよく飲む大食漢だった。
高校時代は、いつも三杯分の味噌汁を
魔法瓶に入れ登校し、作家になってからも、
その大食ぶりで周囲を驚かせたという。
結婚後は、特に家では素材も調理も
出身地である津軽風にこだわった。
郷里から毛蟹が送られてきたときなどは、
大の男がまるで子どものように
有頂天になって喜んだ。
ほかにも、湯豆腐、筋子納豆、
根曲がり竹などが好物で、美和子夫人は
自身の回想録で三鷹の街を毎日食糧集めに
奔走したことを記している。

また、太宰は自他共に認める
大の味の素好きでもあった。
『HUMAN LOST』の中の
「私は、筋子に味の素の雪きらきら降らせ、
納豆に、青のり、と、からし、添えて在れば、
他には何も不足なかった。」という
主人公の語りも太宰自身の本心なのだろう。
貪欲なまでの食事への執着は、
この作家の生きることに対する
力の限りの執着のようにも思えてくる。

食は人をつくる。

"僕がね、絶対、確信を持てるのは・・・"

魔法瓶に味噌汁三杯分、毛蟹で有頂天、湯豆腐、筋子納豆、根曲がり竹・・・。
太宰のイメージからはちょっと想像できない意外なエピソードでしたね。

とくに"大の味の素®好き"というのがいいですね。実際に「HUMAN LOST」以外にも太宰の作品の多くで味の素®が登場しますし、檀一雄の著作「小説 太宰治」のなかで太宰は「僕がね、絶対、確信を持てるのは味の素だけなんだ」と語るほどです。「好き」どころではなく「絶対」の「確信」というほどです。

いまでも太宰の墓前にはファンの方々によって味の素®が供えられているそうです。

また、味の素®が発売されたのは太宰の生まれた1909年〈明治42年〉。奇遇とはいえ、何か縁のようなものを感じます。

味の素®と納豆のレシピ

そこで、今回はレシピ大百科から「納豆」と「味の素®」の組み合わせでできるレシピをご紹介しましょう。

納豆と味の素®レシピランキング

「油揚げの納豆包み」「ちくわ納豆」「カリカリじゃこの納豆チャーハン」など、納豆と味の素?の組み合わせでバリエーションが広がります。ぜひお試しください。

太宰が生きていたら、どんなメニューを好んでくれるしょうか。
"味の素の雪きらきら降らせ"ながら、「油揚げの納豆包み」を頬張っていただきたいですね。

太宰 治(だざい おさむ、1909年〈明治42年〉6月19日 - 1948年〈昭和23年〉6月13日)は、日本の小説家。
本名、津島 修治(つしま しゅうじ)。左翼活動での挫折後、自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、第二次世界大戦前から戦後にかけて作品を次々に発表。主な作品に『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『人間失格』がある。没落した華族の女性を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。戦後は、その作風から坂口安吾、織田作之助、石川淳らとともに新戯作派、無頼派と称されたが、典型的な自己破滅型の私小説作家であった。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
更新日時:2020年8月18日 (火) 04:28)

2020年9月の情報をもとに掲載しています。

歴史・トリビア

東京大学「理学部ニュース」に池田菊苗が登場!

東京大学大学院理学系研究科が発行している「理学部ニュース」第51巻6号(2020年3月20日発行)にて、うま味調味料「味の素®」の主成分、グルタミン酸ナトリウムを発見した池田菊苗博士のことが紹介されました。
1926年(大正15年/昭和元年)に池田博士の意向で刊行された「日本化学会欧文誌 創刊号」と「具留多味酸」(グルタミン酸)が表紙を飾る「理学部ニュース」、さて、どんな内容なのでしょうか。



「日本化学会欧文誌 創刊号」と池田菊苗博士が発見した「具留多味酸」が表紙を飾る「理学部ニュース」第51巻6号


「理学部ニュース」第51巻6号は池田菊苗特集

東京大学大学院理学系研究科が発行している「理学部ニュース」は、研究科内の最新情報や、卒業生・在校生の活動をさまざまなコラムなどで構成され、年6回隔月発行されています。
2020年3月20日発行の「理学部ニュース」第51巻6号では、「日本化学会欧文誌 創刊号」と池田菊苗博士が発見した具留多味酸(グルタミン酸)の写真が表紙と裏表紙を飾り、連載コラム「理学の書棚」では池田菊苗博士と「日本化学会欧文誌」の関係について紹介されており、池田菊苗博士の業績に敬意を表した内容となっています。

「日本の化学論文のプレゼンスを高めたい」

「理学部ニュース」第51巻6号で紹介された「日本化学会欧文誌」は日本化学会が刊行する英文学術雑誌で、化学者であれば知らない者はいないと言われる学会誌です。
1926 年(大正15年)1月に発刊され、現在では年間200報以上を掲載し、日本発の学会誌として非常に高いインパクトを誇ると言われています。
その記念すべき創刊号は、当時東大理学部化学科教授だった池田博士の還暦祝いを発端として創刊されたという事実が述べられています。
また、創刊号の序文には「日本の化学論文のプレゼンスを高めたい」という池田博士の意志で本誌が創刊されたという経緯が綴られているそうです。
池田博士は、日本の若い化学者の研究活動のために論文発表の場を作り、未来に向けた大きなビジョンを描いていたのかも知れませんね。

「味の素®」と東大理学部

1907年(明治40年)、東大理学部化学科教授だった池田菊苗博士は、昆布のうま味から抽出した成分「グルタミン酸ナトリウム」を発見し、二代鈴木三郎助(味の素社の前身「鈴木製薬所」の創設者)に依頼して、グルタミン酸ナトリウムを工業化しました。
これがうま味調味料「味の素®」として製品化され、日本をはじめ海外でも広く受け入れられるようになり、今日に至ります。

最初の「味の素®」(1909年)

池田菊苗博士と鈴木三郎助との出会いが「味の素®」を生み育んだように、東大理学部と味の素社との関係は切っても切れない縁として現在も続いています。
池田博士が発見した具留多味酸試料は、東大理学部化学教室から味の素社がお借りし、「食とくらしの小さな博物館」(東京都港区)で一般公開しています。(「理学部ニュース」第51巻6号の表紙と裏表紙のもの)
また、2008年(平成20年)の味の素社創業100周年に制作したTVCM(小栗旬さん出演)においては、東大の食堂を使用させていただきました。
今回の「理学部ニュース」掲載で見られるように、池田菊苗博士は現代の化学者からも深く尊敬されており、その研究成果や業績は21世紀を迎えてからもなお評価が高まっているようです。100年以上前に彼が発見した「うま味」の存在は、後に科学的に証明されることとなり、海外でも「UMAMI」と呼ばれ、世界共通語として使われるようになりました。
化学者だけでなく、私たちの生活にも大きな影響を与え続けている池田博士の想いは、アミノ酸の研究をさらに推し進める味の素グループという媒介を通じ、世界中に「おいしく食べて健康づくり」という志をさらに広めていくことでしょう。

2020年7月の情報をもとに掲載しています。

歴史・トリビア

日本の十大発明と「味の素®」

4月18日は「発明の日」。ご存知でしたか?
1885年(明治18年)4月18日に日本の専売特許条例(いまで言う特許法)が公布されたことに由来します。
この専売特許条例の公布100周年を記念して1985年(昭和60年)4月18日に、特許庁が産業発展などに大きく貢献したとされる「十大発明家」を選定しました。実はこの「十大発明家」と「味の素®」には深い関係があるんです。

十大発明家とは

1985年(昭和60年)4月18日、日本の工業所有権制度創設と専売特許条例公布100周年を記念して、特許庁が選定した「歴史的な発明者の中から永久にその功績をたたえるのにふさわしい」十人の発明家。その十人を「十大発明家」といいます。
この錚々たる顔ぶれを眺めると、国内はもちろん、その後の世界にも大きく影響を与えることとなるエポックメイキングな偉業であることに驚きます。
皆さんは何人の発明家をご存知ですか?
それでは特許の取得順に十大発明家を紹介していきましょう。

十大発明家

1.豊田 佐吉
特許第1195号
「木製人力織機」
明治24年、彼は当時広く使われていたバッタン織機の生産性と製品の品質の大幅な向上を計った木製人力織機を完成し、最初の特許権を得た。
その後も織機に関する開発を続け、明治36年に緯糸(よこいと)を自動的に補充する画期的な自動杼換装置を完成した。これが自動織機の最初の発明であった。

2.御木本 幸吉
特許第2670号
「養殖真珠」
彼は真珠養殖の研究に取り掛かり、4年間の研究の末、明治26年、養殖したアコヤ貝の穀の内面にコブのような半円形の養殖真珠を造り出すことに成功し、最初の特許権を得た。
その後も彼は、円形真珠を人工養殖で造るための研究を続け、明治41年に真珠素質被着法の特許権を得た。この発明をきっかけとして日本の真珠養殖業は飛躍を遂げ、一つの産業として成長した。

3.高峰 譲吉
特許第4785号
「アドレナリン」
彼は、幾つかの独創的な方法で結晶分離による純粋なアドレナリンの製法を発明し、明治34年、特許権を得た。この発明は、ホルモンの最初の結晶化であり、医療上なくてはならない常用医薬の製造に寄与する業績として高く評価されている。

4.池田 菊苗
特許第14805号
「グルタミン酸ソーダ」
彼は、昆布のうまみの成分を解明すれば調味料として工業的に生産できるのではないかと考え、研究を続けた結果うまみの成分がグルタミン酸ソーダであることを突き止め、これを主要成分とする調味料の製造方法を発明し、明治41年、特許権を得た。グルタミン酸ソーダは、彼の働きかけによって商品化され、調味料として広く売り出された。

5.鈴木 梅太郎
特許第20785号
「ビタミンB1」
米糠中に脚気を治癒する成分のあることを実験的に確認し、この有効な成分が「アベリ酸」(今日のビタミンB1)であることを解明、また米糠中から「アベリ酸」の分離に成功し、明治44年、特許権を得た。この物質が世界で最初に抽出されたビタミンである。また彼は「アベリ酸」が不可欠の栄養素であることを動物実験により証明し、今日のビタミン学の基礎を確立した。

6.杉本 京太
特許第27877号
「邦文タイプライター」
彼は、左右に移動する活字庫、前後に移動する印字部及び円筒型の紙片保持具によって構成する独創的な機構をもつ邦文タイプライターを発明し、大正4年、特許権を得た。この発明は、現在の邦文タイプライターの基礎となる画期的なもので、邦文による書類作成事務の能率化に大きく貢献をした。

7.本多 光太郎
特許第32234号
「KS鋼」
彼は強力な磁石鋼の開発に取り組み、従来のタングステン鋼と比べて抗磁力が3倍と非常に強く焼入硬化型の永久磁石鋼としては最強の抗磁力を有するKS鋼を発明し、大正7年、特許権を得た。KSの名はこの磁石が住友吉左衛門の寄付によって完成されたのでその頭文字を採ったものである。

8.八木 秀次
特許第69115号
「八木アンテナ」
彼は、将来短波あるいは超短波による通信が主力となることを予見し、その研究と指導に意を注ぎ、大正14年、「短波長電波の発生」、「短波長による固有波長の測定」等の論文を発表した。これらの発表された理論に基づき、いわゆる八木アンテナの基本となる「電波指向方式」を発明し、大正15年、特許権を得た。今日の超短波、極超短波で使用されているほとんどすべてのアンテナ系はこの方式によって構成されている。

9.丹羽 保次郎
特許第84722号
「写真電送方式」
彼は、我が国独自の研究開発の必要性を感じて、大正13年欧米の実状を視察し帰国後、写真電送の研究に取り組み、有線写真電送装置を発明し、昭和4年、特許権を得た。この写真電送装置は取扱いが簡単であるばかりでなく、完全に写真が再生できるもので、我が国初の写真電送装置として、昭和天皇の即位式のニュース写真の電送に用いられ、優れた成績を上げた。この成功は、その独創性や実用性において我が国の電気通信界に大きな刺激を与えた。

10.三島 徳七
特許第96371号
「MK磁石鋼」
彼は、磁石鋼の磁石の理論的解明を進めている際、無磁性のニッケル鋼にアルミニウムを添加すると磁性を回復することを発見した。この研究を進め、ついに残留磁気及び抗磁力が高く、従来の焼入れ型と違って析出硬化型のため安定度が優れ、磁性の温度変化及び経年変化が小さいMK磁石鋼を発明し、昭和7年、特許権を得た。この磁石鋼は永久磁石史上革命的なもので、現在広く用いられているアルニコ磁石の基本となったものである。MK磁石鋼は発電機、通信機、ラジオ等のスピーカーなど民生機器及び産業機器用等の磁石として広く使われるなど、その後の技術進歩に大きく貢献した。

(出典:特許庁ホームページ「十大発明家」より抜粋 https://www.jpo.go.jp/introduction/rekishi/10hatsumeika.html

池田菊苗と「味の素®」

この「十大発明家」として称えられた発明家の中で、味の素グループと関係しているのが、グルタミン酸ナトリウム(グルタミン酸ソーダ)を発見した池田菊苗博士(1864~1936)です。
アミノ酸の一種である「グルタミン酸ナトリウム」は、昆布のうま味から抽出した成分。彼は家庭の食卓に上っただし昆布のおいしさにヒントを得て、「甘味」「酸味」「塩味」「苦味」という四つの味のほか、もう一つの「うまい」という味が存在するはずだと考え、このうま味の正体をつきとめようとしました。
1908年(明治41年)、実験の結果、だし昆布に含まれるうま味の本体がグルタミン酸塩であることを解明し、その中からうま味の究極的存在である結晶性のナトリウム塩を得る方法を発明しました。

池田菊苗博士が昆布から抽出したグルタミン酸(1908年)

グルタミン酸は元来、ドイツで発見されていましたが、これが「うま味」成分であることを突き止めたのは、池田博士による大発見でした。
この発見が日本人の栄養状態を改善できると考えた池田博士は二代鈴木三郎助(味の素社の前身「鈴木製薬所」の創設者)に依頼して、グルタミン酸ナトリウムを工業化。
「おいしく食べて健康づくり」という志のもと、「味の素®」という名前の調味料は、日本をはじめ、海外でも広く受け入れられるようになりました。

最初の「味の素®」(1909年)

21世紀の世界に評価されるUMAMI

甘味、酸味、塩味、苦味に次ぐ第五の味とされ、池田博士が発見した「うま味」の存在に関しては長く学界で議論されてきました。
1985年(昭和60年)にハワイで行われた国際シンポジウムでは、「UMAMI」という用語が世界的に使われることで合意され、1990年(平成2年)にイタリアのシシリー島で行われた第2回シンポジウムでうま味物質の普遍性やうま味感覚の独立性および独自性が確認されました。
そして、2000年(平成12年)、マイアミ大学の研究チームが、舌の味蕾(みらい)と呼ばれる部位にグルタミン酸の受容体があることを発見したのです。
これによって、人間が「うま味」を感知していることが、科学的に立証され、一般的にも日本語のUMAMIのままで世界に通用するようになり、池田博士の研究の先進性がうかがえる結果となりました。
また、2006年(平成18年)には、味の素KKライフサイエンス研究所が、舌だけでなく、胃にもグルタミン酸の受容体があることを発見。これによりグルタミン酸がタンパク質の消化吸収に関与していることがわかりました。
グルタミン酸はおいしさに関わるだけでなく、栄養・生理学的にも重要であることが示されました。「おいしく食べて健康づくり」という志は、科学的にも実証されているのです。
2018年(平成30年)、1908年に池田菊苗博士が「うま味」を発見してから110周年となる記念の年に、味の素グループは米国ニューヨーク市でWUFを開催しました。海外の学者やジャーナリスト、研究家が集まり、グルタミン酸についての研究成果の講演などを行い、関係者から高い評価と大きな期待を得ることとなりました。

栄養不足と栄養過多、食品ロスなど、現代の世界が抱える課題は当時の課題とは異なります。しかし、今こそ、「うま味」と真剣に向き合い、アミノ酸の研究をさらに推し進めていくこと。この取り組みこそが、池田博士の「おいしく食べて健康づくり」という問いに答える味の素グループとしての使命かも知れません。

2020年4月の情報をもとに掲載しています。