偉人の食卓

伊達政宗「刀と包丁、戦国一の二刀流。」~偉人の食卓シリーズvol.2

味の素社では、2011年から新聞広告として「偉人の食卓」というシリーズの広告を掲載していました。歴史上の人物にスポットを当て、その人物がどのような料理を好んでいたか、またその料理に関するエピソードを紹介し、資料などから「偉人の食卓」を再現するというものです。

「太宰治(だざい おさむ)」に続き、第2回目は戦国武将「伊達政宗(だて まさむね)」です。

歴代のNHK大河ドラマのなかでも高い人気を誇った「独眼竜政宗」(1987年:昭和62年)は、激動の戦国時代において波乱に満ちた生涯を送った武将伊達政宗をエネルギッシュに描いた名作ですが、実は政宗は「食」に対しても非常に情熱を費やしていたそうです。

「戦国武将一の食通」と言われる伊達政宗のエピソードを中心に紐解いてみましょう。

刀と包丁、戦国一の二刀流。

新聞広告「偉人の食卓 伊達政宗」をご紹介します。

https://www.ajinomoto.co.jp/kfb/cm/newspaper/pdf/ajinomoto_np062.pdf
クリックするとPDFファイルをご覧いただけます。
ご注意
PDFの閲覧・ダウンロードについては Webサイト利用規約をご確認の上、ご利用ください。

偉人の食卓 伊達政宗

刀と包丁、戦国一の二刀流。

奥州の虎と恐れられた政宗は、
その一方で戦国武将一の食通と言われる
顔も持ち合わせていた。
しかし、政宗は単なる食道楽ではなかった。
実は戦の際に食糧を確保するため、
若いころから補給の問題に目を向けていたのだ。
ところがこれにはまってしまい、
戦乱の世が終わったあと
美食の道へと入っていったという。
研究熱心な政宗は台所に入って自ら料理をした。
『命期集』には、「馳走とは旬の品をさり気なく出し、
主人自ら調理して、もてなす事である」という
名言も記されているほど。

たとえばある朝食では、赤貝焼き、
ふくさ汁、ごはん、ヒバリの照り焼き、
鮭のなれ寿司、このわた、栗と里芋などを
食べたとされている。
政宗は献立を考えることさえ、
毎朝豪華な二畳敷のトイレに篭って
二時間も熟考していたという。
料理だけでなく、能や太鼓など、
多くの趣味を持っていた政宗。
あらゆることに興味を持ち、貪欲に熱中し、
自分でやってみないと気が済まない。
そんな気性が戦国の世を生き抜く知恵と情熱と
リーダーシップを生んだのもうなずける。

食は人をつくる。

"馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である"

伊達政宗は、10年早く生まれていたら天下をとっていたかも知れない、と言われています。戦国武将として未来を見据え、関ヶ原の戦いのあと、仙台藩の初代藩主となり、現在の仙台市の基盤を作り、繁栄をもたらした人物です。

記事で紹介したように自ら献立を熟考し、自ら厨房に入り調理したというエピソードもそうですが、政宗や伊達家の料理についての数々の文献では、正月の雑煮やおせち料理も多くの食材を用いた豪華なものだったと綴られています。想像以上のグルメ大名です。

さらに政宗は江戸時代の食文化にも貢献していたと言われています。

仙台藩では新田開発を積極的に行い、生産された米を江戸に送ることで、江戸ではおいしい仙台のお米を食べることができました。

さらに、政宗は仙台城下に御塩噌蔵(おえんそぐら)という900坪の味噌醸造所を作りました。中国の発酵の技術を持つ古木市兵衛によって良質な味噌を生産しました。これが仙台味噌の始まりであり、日本初の味噌工場となりました。
(秀吉の朝鮮出兵の際に、他藩の味噌は腐ってしまったのですが、仙台味噌は品質も変化せず、味も優れていたというエピソードもあるそうです。)

米と味噌、仙台藩によってもたらされた食文化は、江戸の庶民の胃袋を鷲掴みにしたとも言えるでしょう。

まさに、"主人自ら調理して"江戸の300年に渡る食文化の基礎を築き、平安な世という"馳走"をもたらしたのは政宗だったのかも知れません。

食への追求、旬のものを旬の時期に味わう

伊達政宗は、70歳でその生涯を閉じました。
当時としては長命だった理由のひとつとして、「食」に対するこだわりがもたらしたのだと言われています。

仙台味噌に含まれるグルタミン酸、ビタミン、イソフラボンや、宮城のミネラルが豊富な海の幸、その旬を食すことで、政宗自身が健康とあふれる活力を維持できたのかも知れません。

私たちも、政宗に見習って、元気な毎日を過ごすためにも、栄養に着目し、旬のものをいただくのはいかがでしょうか。

レシピ大百科:食欲の秋♪秋の味覚を楽しむレシピ特集☆

伊達 政宗(だて まさむね)(1567年9月5日 - 1636年6月27日)は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主である。幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
更新日時:2020年8月31日 (月) 01:16 )

2020年10月の情報をもとに掲載しています。

偉人の食卓

太宰治「食べすぎて、すみません。」~ 偉人の食卓シリーズvol.1

味の素社では、2011年から新聞広告として「偉人の食卓」というシリーズの広告を掲載していました。歴史上の人物にスポットを当て、その人物がどのような料理を好んでいたか、またその料理に関するエピソードを紹介し、資料などから「偉人の食卓」を再現するというものです。

今回は第1回として「太宰治(だざい おさむ)」のエピソードをご紹介します。

「人間失格」「斜陽」「津軽」「走れメロス」などの著作で知られる小説家、太宰治。作品の世界観や氏の写真の雰囲気から、食が細い印象がしますが、果たして実際はどうだったのでしょうか。

また、太宰と味の素?の意外な関係も明らかになりました。

"食べすぎて、すみません。"

それでは、この新聞広告「偉人の食卓 太宰治」を紹介しましょう。
タイトルは、太宰の短編小説「二十世紀旗手」のサブタイトル"生れて、すみません。"から、 "食べすぎて、すみません。"

https://www.ajinomoto.co.jp/kfb/cm/newspaper/pdf/2011_4.pdf
クリックするとPDFファイルをご覧いただけます。
ご注意
PDFの閲覧・ダウンロードについては Webサイト利用規約をご確認の上、ご利用ください。

偉人の食卓 太宰 治

食べすぎて、すみません。

「子供の頃の自分にとって、最も苦痛な時刻は、
実に、自分の家の食事の時間でした。」

そんな『人間失格』の一節からは想像できないほど、
実際の太宰治は、よく食べよく飲む大食漢だった。
高校時代は、いつも三杯分の味噌汁を
魔法瓶に入れ登校し、作家になってからも、
その大食ぶりで周囲を驚かせたという。
結婚後は、特に家では素材も調理も
出身地である津軽風にこだわった。
郷里から毛蟹が送られてきたときなどは、
大の男がまるで子どものように
有頂天になって喜んだ。
ほかにも、湯豆腐、筋子納豆、
根曲がり竹などが好物で、美和子夫人は
自身の回想録で三鷹の街を毎日食糧集めに
奔走したことを記している。

また、太宰は自他共に認める
大の味の素好きでもあった。
『HUMAN LOST』の中の
「私は、筋子に味の素の雪きらきら降らせ、
納豆に、青のり、と、からし、添えて在れば、
他には何も不足なかった。」という
主人公の語りも太宰自身の本心なのだろう。
貪欲なまでの食事への執着は、
この作家の生きることに対する
力の限りの執着のようにも思えてくる。

食は人をつくる。

"僕がね、絶対、確信を持てるのは・・・"

魔法瓶に味噌汁三杯分、毛蟹で有頂天、湯豆腐、筋子納豆、根曲がり竹・・・。
太宰のイメージからはちょっと想像できない意外なエピソードでしたね。

とくに"大の味の素®好き"というのがいいですね。実際に「HUMAN LOST」以外にも太宰の作品の多くで味の素®が登場しますし、檀一雄の著作「小説 太宰治」のなかで太宰は「僕がね、絶対、確信を持てるのは味の素だけなんだ」と語るほどです。「好き」どころではなく「絶対」の「確信」というほどです。

いまでも太宰の墓前にはファンの方々によって味の素®が供えられているそうです。

また、味の素®が発売されたのは太宰の生まれた1909年〈明治42年〉。奇遇とはいえ、何か縁のようなものを感じます。

味の素®と納豆のレシピ

そこで、今回はレシピ大百科から「納豆」と「味の素®」の組み合わせでできるレシピをご紹介しましょう。

納豆と味の素®レシピランキング

「油揚げの納豆包み」「ちくわ納豆」「カリカリじゃこの納豆チャーハン」など、納豆と味の素?の組み合わせでバリエーションが広がります。ぜひお試しください。

太宰が生きていたら、どんなメニューを好んでくれるしょうか。
"味の素の雪きらきら降らせ"ながら、「油揚げの納豆包み」を頬張っていただきたいですね。

太宰 治(だざい おさむ、1909年〈明治42年〉6月19日 - 1948年〈昭和23年〉6月13日)は、日本の小説家。
本名、津島 修治(つしま しゅうじ)。左翼活動での挫折後、自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、第二次世界大戦前から戦後にかけて作品を次々に発表。主な作品に『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『人間失格』がある。没落した華族の女性を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。戦後は、その作風から坂口安吾、織田作之助、石川淳らとともに新戯作派、無頼派と称されたが、典型的な自己破滅型の私小説作家であった。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
更新日時:2020年8月18日 (火) 04:28)

2020年9月の情報をもとに掲載しています。