「太宰治(だざい おさむ)」に続き、第2回目は戦国武将「伊達政宗(だて まさむね)」です。
歴代のNHK大河ドラマのなかでも高い人気を誇った「独眼竜政宗」(1987年:昭和62年)は、激動の戦国時代において波乱に満ちた生涯を送った武将伊達政宗をエネルギッシュに描いた名作ですが、実は政宗は「食」に対しても非常に情熱を費やしていたそうです。
「戦国武将一の食通」と言われる伊達政宗のエピソードを中心に紐解いてみましょう。
刀と包丁、戦国一の二刀流。
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"馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である"
伊達政宗は、10年早く生まれていたら天下をとっていたかも知れない、と言われています。戦国武将として未来を見据え、関ヶ原の戦いのあと、仙台藩の初代藩主となり、現在の仙台市の基盤を作り、繁栄をもたらした人物です。
記事で紹介したように自ら献立を熟考し、自ら厨房に入り調理したというエピソードもそうですが、政宗や伊達家の料理についての数々の文献では、正月の雑煮やおせち料理も多くの食材を用いた豪華なものだったと綴られています。想像以上のグルメ大名です。
さらに政宗は江戸時代の食文化にも貢献していたと言われています。
仙台藩では新田開発を積極的に行い、生産された米を江戸に送ることで、江戸ではおいしい仙台のお米を食べることができました。
さらに、政宗は仙台城下に御塩噌蔵(おえんそぐら)という900坪の味噌醸造所を作りました。中国の発酵の技術を持つ古木市兵衛によって良質な味噌を生産しました。これが仙台味噌の始まりであり、日本初の味噌工場となりました。
(秀吉の朝鮮出兵の際に、他藩の味噌は腐ってしまったのですが、仙台味噌は品質も変化せず、味も優れていたというエピソードもあるそうです。)
米と味噌、仙台藩によってもたらされた食文化は、江戸の庶民の胃袋を鷲掴みにしたとも言えるでしょう。
まさに、"主人自ら調理して"江戸の300年に渡る食文化の基礎を築き、平安な世という"馳走"をもたらしたのは政宗だったのかも知れません。
食への追求、旬のものを旬の時期に味わう
伊達政宗は、70歳でその生涯を閉じました。
当時としては長命だった理由のひとつとして、「食」に対するこだわりがもたらしたのだと言われています。
仙台味噌に含まれるグルタミン酸、ビタミン、イソフラボンや、宮城のミネラルが豊富な海の幸、その旬を食すことで、政宗自身が健康とあふれる活力を維持できたのかも知れません。
私たちも、政宗に見習って、元気な毎日を過ごすためにも、栄養に着目し、旬のものをいただくのはいかがでしょうか。
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伊達 政宗(だて まさむね)(1567年9月5日 - 1636年6月27日)は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主である。幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
更新日時:2020年8月31日 (月) 01:16 )
2020年10月の情報をもとに掲載しています。
偉人の食卓 伊達政宗
刀と包丁、戦国一の二刀流。
奥州の虎と恐れられた政宗は、
その一方で戦国武将一の食通と言われる
顔も持ち合わせていた。
しかし、政宗は単なる食道楽ではなかった。
実は戦の際に食糧を確保するため、
若いころから補給の問題に目を向けていたのだ。
ところがこれにはまってしまい、
戦乱の世が終わったあと
美食の道へと入っていったという。
研究熱心な政宗は台所に入って自ら料理をした。
『命期集』には、「馳走とは旬の品をさり気なく出し、
主人自ら調理して、もてなす事である」という
名言も記されているほど。
たとえばある朝食では、赤貝焼き、
ふくさ汁、ごはん、ヒバリの照り焼き、
鮭のなれ寿司、このわた、栗と里芋などを
食べたとされている。
政宗は献立を考えることさえ、
毎朝豪華な二畳敷のトイレに篭って
二時間も熟考していたという。
料理だけでなく、能や太鼓など、
多くの趣味を持っていた政宗。
あらゆることに興味を持ち、貪欲に熱中し、
自分でやってみないと気が済まない。
そんな気性が戦国の世を生き抜く知恵と情熱と
リーダーシップを生んだのもうなずける。
食は人をつくる。